幕末の探検家 松浦武四郎の軌跡

DATE 2019.08.15

対外問題に揺れる幕末。ロシアの侵略を危惧して、独断で3回の蝦夷地調査に赴いた松浦武四郎。阿寒を訪れたのは6回目となる1858年。幕府の用命で初めて道東の内陸部を調査した際のことです。道東については「阿寒誌」「摩周誌」など8冊に記したものが箱館奉行に提出され、のちに要点をまとめた紀行文「久摺日誌」として広く発行されました。
久摺日誌の中で武四郎は地理に詳しいアイヌを頼りに徒歩や舟で、釧路の大楽毛から阿寒、舎利、弟子屈、標茶という過酷な距離を巡ります。「一般的に江戸時代の旅人の歩行距離は1日30~40㎞と言われますが、武四郎は多い時には60~70㎞も歩いたようです。並外れた健脚の持ち主だったのですね」と、北海道博物館で武四郎の研究をしている三浦学芸員。
久摺日誌で山中は常にけもの道で、時には草の根にしがみつき、時には腰までの雪をかき分けて進んだと記されています。道東を巡った武四郎の感想は「果てしなく肥えた良い土地であり、決して不毛の地ではない」と言わしめるほど。旅の中で書き残した風景には「続く山の峰の間に、釧路などの川が、まるで蜘蛛が糸を引くように入り組んで流れている」など詩的な表現で記されている場所も多く、知るはずの阿寒を見知らぬ異国のように感じさせます。
また武四郎は阿寒湖畔の温泉も旅の合間に楽しんでいます。日誌では「高さ30m以上ある亀の甲羅に似た赤い石から温泉が湧き、渓流の冷たい水と合わさって湯加減がぴったり。3年分の疲れも消え失せるように思われる」とまとめていました。


「さまざまな文献から、武四郎の好奇心の強さや、人の懐に飛び込むのが上手だったことがうかがえます」と三浦学芸員は語ります。その好奇心の強さは「久摺日誌」に残された細かな地形、地名などの記載から感じられるでしょう。また宴に誘われて参加したりするなど、アイヌ民族とその文化に強い興味と親しみを感じています。旅の終わりにはアイヌの祭具であるイナウを祀って無事の帰着を祝ってもいます。異文化を受け止めている様子からも、柔軟な思考の持ち主だったことがうかがえます。同時にアイヌも笠が壊れてしまった武四郎に大切に作った笠を譲り渡したりして丁寧に対応する様子が描かれています。しかし三浦学芸員は、武四郎が現代的な感覚でいうヒューマニストとは少し異なるという見解です。「武四郎が幕末という激動の時代を生きた人であることは考慮しなければなりません。単に現代的な感覚では比べられず、アイヌ民族の生活改善の訴えの背景にはロシアへの脅威もありました。ただそれでも、寝食を共にするなど、親しく交流したアイヌの人々一人一人の幸せを願う武四郎の気持ちは強かったと思います」とのこと。幕府の役人という立場から、幕府による、より良い蝦夷地の統治が行われていくことに期待した武四郎。和人もアイヌも共に幸せに暮らせる未来を思い描いていたのでしょう。

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