春の釧路街道で馬に出逢う。

DATE 2019.09.05

釧路に馬が入ったのは寛政十二(1800)年のことである。幕府がロシアに対する防具をにわかに固めだし、警備役人のほか伊能忠敬や近藤重蔵らも東蝦夷地に放たれた。こうした役人や探検家らが移動用に連れてきた馬が、蒙古馬を起源とする南部馬であったようだ。そして冬の間、蝦夷地に放置されて寒さに適応していった元南部馬が、道産子(北海道和種馬)の先祖ではないかと言われている。今年3月、道東自動車道が開通し、より広く周遊できるようになったひがし北海道。旅の途中で体高130センチ前後のどっしりとした、たてがみが豊かな馬を見かけたら、それはきっと道産子。過酷な原生林で働き、厳しい冬を乗り越えた強靭なDNAを感じるはずだ。
名馬ゆかりの地、釧路市大楽毛の「神馬事記念館」へは、阿寒ICからのアクセスが便利です。

JR大楽毛駅から北へ150m。静かな住宅地の一角に「神馬事記念館」がある。展示されているのは、明治後期から昭和20年代にかけて産馬改良ひとすじに生きた、神八三郎氏の足跡を記す資料や写真等。眺めていると、かつてこの場所で開かれた「大楽毛馬市」の熱気が、100年の時空を超えて伝わってくるようだ。

明治20年代、釧路の入植者は夏の海霧に苦しめられ穀物農業に失敗する者が続出したが、その中で先見を訴えたのが当時34歳の神氏であった。
「釧路の気候は産馬に合う。冬も雪が少ないから年中放牧ができるし、山野には飼料となるみやこ笹も豊富だ。」そう言って、釧路産牛馬畜産組合(後の釧路馬匹組合)の創設に奔走しながら、自ら馬を飼い改良に取り組み始める。そしてその見通しは見事当たった。時は明治39年。日清、日露戦争を終えた日本陸軍から「外国に劣らない大きな軍馬を量産せよ」との達しが釧路産牛馬組合に届く。しかし神氏は毅然と言い放った。「釧路は、日本男子が楽に乗れる小型で、力のあるまあ(馬)を作ります」。そう主張した神氏のもと、釧路の馬産農家6,000戸が結集する。そして輓馬の「日本釧路種」が昭和7年に、乗馬用の「奏上釧路種」が昭和12年に完成した。馬の品種を作出するには、通常100年から200年はかかるといわれたが、神氏と釧路の馬産者たちはそれを50年でやってのけたのだ。

そして第二次世界大戦が終結。もう軍用馬の需要はないが、復興のための土地開拓に産業馬じゃ必要だ。そこで神氏と釧路馬匹組合は昭和21年と27年に、大楽毛家畜市場で「一千頭共進会」を開催。敗戦の混迷期に、馬のマチ釧路が復活を見せた。広大な原野に有料牡種馬が居並ぶ様子は壮観で、日本中から来た馬商たちも興奮したことだろう。「釧路種」は全国へと渡って開拓で働き、やがて姿を消していった。しかし、神氏の功績と釧路種の名声は、釧路の歴史に刻み込まれている。

神八三郎氏が率いた釧路の馬産は皇室との関わりが深く、その栄誉が原動力となって団結し、偉業を達成できたと考えられている。1911(明治44)年、当時東宮であった大正天皇が釧路の馬を台覧され、神氏に「かけたか」とおたずねになった。緊張した神氏が「まだ駆けてはおりませぬ」と答えると、「いや、かけたか」と再びおたずね。神氏が「恐れながら、種付けのことでございましょうか」と申し上げると、「左様」。神氏が馬産の計画を述べると「良い子をとれよ」とのお言葉を賜った。この時から、神氏の馬産にかける決意は確固たるこのとなった。また、お声がかり「の馬の子孫には「翔鷹(かけたか)」の名が付けられた。

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