石川啄木が愛した北海道

DATE 2019.07.25

本州の最北端である大間埼が霞む函館の大森浜海岸に、考え込むような誰かの影。明治の歌人と謳われた石川啄木の座像です。1886年、岩手県にある日照山常光寺に生を受けた啄木。後の言語学者となる金田一京助の影響を受けて文学に傾倒した啄木は、ゆかりのある岩手や北海道はもちろん国内外でも広く知られる歌人となりました。彼はこう言い遺しました。「詩は食らうべきもの。食事の香の物の如く、然く我々に必要な物の一つにする。それが詩を肯定する唯一の途である」。26年間という短すぎる生涯の中で彼は言葉通り、日常を綴った多くの詩を遺したのです。今回は今なお、かの実像を追い続ける道内の研究者に、啄木の魅力について尋ねます。

大火によって函館を後にした啄木は職を求めて札幌から小樽へと移り、
さらに当時の釧路新聞社(現・北海道新聞社)の新聞記者として働くことになります。
あまり良い思い出がなかったと言われる釧路時代について、
国際啄木会の北海道支部長を務める北畠立朴さんに語っていただきました。

啄木が釧路にいたのはたった76日間でした。釧路に対してあまり良いイメージを持っていなかったと一般的には語られていますが、僕は違うんじゃないかなと思っています。釧路に来る以前は遊軍記者として働いていた啄木ですが、釧路新聞社では編集長のような役割を期待されて雇われることになりました。

釧路での暮らしは、給料は少なったものの、立場上2日に1度料亭で芸妓遊びができるほどの豪遊三昧。妻子を小樽に置いたまま、小奴というひいきの女性や看護婦の梅川操という愛人もいたりと実に奔放に過ごしていたようです。また明治時代の記事は主観や考察を含めた書き方が主流でしたから、自由に書きたいことを綴れていたのではないかと思っています。それまでの啄木になかった編集力を培ったのも釧路でのことでしょう。釧路を離れた理由は東京に戻りたくなったからと言われていますが、決意を固める少し前に梅川操との仲がこじれています。僕はそれで釧路を離れていまいたくなったのではないかと考えていますね。東京へ拠点を移した後は、命を削るように多くの詩を残し、26歳という若さで肺結核になり命を落としました。
啄木はなにしろ洞察力に優れた人間だったので、未来を見通す直感にも優れていました。当時の釧路の様子を見て、いずれ道東の拠点になるだろうと手記にも残しています。優れた洞察力は詩にも顕れていて、日本語を勉強する外国人の教材として使われるほどです。

私も高校生の頃に「一握の砂」を読んだことが研究のキッカケでした。啄木の歌は分かりやすく、とても耳に残りやすいと感じています。文章が老成していて、とても22歳の若者が書いたとは思えません。詩の魅力に惹かれて興味を持ち、自由奔放な啄木の伝記研究に60年以上のめり込んできました。基本的にだらしない啄木の人柄は好ましくありませんが、研究テーマとしては人生をかける価値があったと思っています。何かを残す人物が天才なのだとすれば、100年以上にわたり詩が語り継がれる啄木は確かに自負していた通り才能があったということなのでしょう。

西洋文化の吸収が積極的に行われた明治時代。物語の中に写実主義的なアプローチを含んだ小説が生まれました。それが現代でも書物の柱となっている文学小説です。
石川啄木はそんな時代のまっただ中である1886年に生まれました。ふるさとは岩手県の田舎にある渋民村。住職の息子として生を受けるも、中学時代に後の言語学者・金田一京助から影響を受けて文学で身を立てたいと志すようになります。また妻となる堀合節子と出会ったのも中学時代です。節子は盛岡のミッションスクール私立盛岡女学校に通う裕福な家柄のお嬢様。アプローチの激しい啄木に最初は戸惑っていた節子ですが、次第に気持ちが傾いていきました。
啄木は『明星』に「啄木」の筆名で発表した「愁調」と題した5編の長詩が載り、注目され上京。1905年には詩集『あこがれ』を出版します。同年には堀合節子と結婚しますが、なぜか結婚式の5日後に盛岡へ帰ってきました。その後、啄木は渋民へ戻って小学校の代用教員となり課外授業では英語を教えます。啄木は父・一禎の家出により20歳にして妻子と母、妹と自分を合わせて5人を養っていかなければならない事態になってしまいました。しかし勤務先の小学校の校長との折り合いが合わず、子供たちを先導して革命歌を歌わせたりストライキを起こしたりなどの問題を起こし免職。
心機一転を図るために選んだのが函館です。函館でも今も啄木研究を続ける櫻井健治さんに、魅力や生活について伺いました。

私は函館生まれで、50年近く啄木研究を行っています。大学時代、近代文学を専攻し、卒論で啄木を取り上げたことがキッカケです。啄木の魅力を一言で表すと、読み手の心に染み渡り、刺激を与える詩を書いたということ。つまりとてもわかりやすく、心にストンと入ってくる作品が多いのです。もちろん3行書きという新たな表現形式を生んだことでも評価されています。誰でも覚えやすく口ずさむことができる詩は海外でも高く評価されており、明治時代の歌人では啄木ひとりと言っていいでしょう。26歳という若さでこの世を去ったにも関わらず、高い人気を有していること自体が偉大さを表していると思いますね。
啄木が新天地に函館を選んだのは、当時この場所が自身にとってふさわしい街だと考えたからでしょう。しかし気持ちは常に東京にあったと思いますが海外へ憧れを抱いていた啄木にとって、開港で沸く函館は可能性に満ちた土地だったのではないでしょうか。啄木の函館生活は短い生涯の中でも幸せで穏やかなものだったと考えます。妻子と暮らしながら弥生尋常小学校の代用教員として働き、北海道唯一の同人文芸誌『紅苜蓿(べにまごやし)』を発行する苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)の仲間たちと詩作を深める毎日でした。133か町8977戸が焼失して大火災さえなければ、啄木は函館で暮らし続けていたでしょうね。
啄木が務めていた、弥生尋常小学校での代用教員で得られるひと月の給与は12円でした。1910年の啄木の記録を見ると1372円という借金を背負っています。しかしパトロン文化が盛んだった時代で、天才だと自負していた啄木ですから周囲が支えるのは当たり前だと思っていたのかもしれません。啄木は晩年、病で苦しむ体を抱えながら、借りたお金や見舞金で薬ではなく原稿用紙や参考書を購入しています。それほどまで文学に情熱を燃やし、凝縮した人生を送った人とも言えます。

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