松浦 武四郎の旅路を探る

阿寒湖エリア / DATE 2019.08.15

松浦 武四郎の旅路を探る

ロシアからの侵略を案じ、立ち入りが規制の蝦夷地へ

時は幕末。対外問題に揺れる国内では、武士や商人など身分を問わず国の政策を議論し合う機運が高まっていました。当時26歳だった郷士の三男坊・松浦武四郎もその一人。ロシアが南下するという噂から、対抗策が充分であるかを確かめるために蝦夷地調査へ単身向かったのです。
当時の渡島半島以北は、一般の出入りが厳しく制限されていた土地でした。関所を通ることができるのは、蝦夷地を治めていた松前藩の許可を得た者だけです。しかし、そこで諦める武四郎ではありませんでした。
松前藩は、運上金の上納と引きかえに蝦夷地各「場所」の経営を特権的な商人に任せる「場所請負制」を取り入れていました。武四郎はそこに当たりを付け、道東の場所の経営を請け負っていた函館の商人・和賀屋孫兵衛の手代という奉公人の立場で1回目の旅を行うことに成功したのです。「運が良かっただけかもしれませんが、知らない土地で協力者を見つけてしまうことこそ、武四郎の人柄」と話すのは、北海道博物館で武四郎の研究を続ける三浦学芸員です。
商人の手代や藩医の家来という立場を得て武四郎は、函館から知床までの東側沿岸を調査する1回目(1845年)、函館から西側沿岸を通り樺太へ渡る2回目(1846年)、北方領土である国後島と択捉島を調査する3回目(1849年)を完遂します。そうして蝦夷地の支配実態などを紀行文にまとめ、諸外国を打ち払うといった取り立て攘夷派であった徳川斉昭などへ献上しました。「このとき献上した文面の中には、“アイヌの人々は松前藩によって不当な扱いを受けているため、ロシアの甘言になびいてしまう恐れがある”などといった内容も書かれていました」と三浦学芸員。この後松前藩に恨まれ狙われるのも理解できる内容です。ちなみに探検家というと道なき道を手探りで進むようなイメージがあります。武四郎の場合、全てがそうではありませんでしたが、道案内のアイヌの人々と苦労を分かち合ったこともあったそう。

 

松浦 武四郎の旅路を探る

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幕府の大義名分による細かな蝦夷地調査が命名に繋がる

1855年。松浦武四郎は晴れて蝦夷地御用雇として正式に蝦夷地を調査する大義名分を手に入れます。気候風土、新たな道や開拓に最適な場所の選別、アイヌの人々の生活状況などの調査が幕府から命ぜられました。「面白いのがこの頃、武四郎は明治維新へ影響を与える吉田松陰とも交流を深めているんです。吉田松陰は、知人に宛てた手紙で、世の新しい情報を集めるなら武四郎と付き合いなさいと書いています」。三浦学芸員の話からも武四郎は広く情報を集めていた様子が感じられます。          
そうして迎えた4回目(1856年)は、函館から出立し、西側沿岸を通って樺太、紋別、根室、様似を巡ります。5回目(1857年)は西側を内陸部へ分け入る旅。案内人はアイヌの人々にお願いし、時には集落へ泊まることもありました。旅の食料として米、味噌、塩を携帯して、魚や肉などは現地でアイヌの人々から分けてもらうことも少なくなかったようです。三浦学芸員曰く「武四郎自身の紀行文には、アイヌの人々に分けてもらった食事をすべてパクパク平らげたことで、アイヌの人々との交流がより深まったというエピソードも記されています」とか。また「北海道」という名前となるキッカケも、5回目に訪れた天塩地域に住むアイヌの長老から得たもの。「カイ」というアイヌ語に「この地で生まれたもの」という意味があると聞いたことが、後の命名案に影響を与えたと言われています。
武四郎の蝦夷地調査も、6回目(1858年)が最終回。この旅は函館、札幌、富良野、十勝、網走へと渡り、日高と道東をもう一度巡るという、最も長い旅になりました。阿寒を訪れたのも6回目。こうして武四郎は13年間におよぶ蝦夷地調査に幕を下ろします。明治維新後、新政府は「蝦夷地」を改称しようとしますが、役人であった武四郎の命名案は6案。日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北道、千島道です。その中でホッカイドウが採用され、「北海道」と漢字が当てられたと言われています。「武四郎の北加伊道が名前の由来とされていますが、東海道などの五畿七道の流れを組んで北海道と名付けられた可能性もあります。武四郎はそれを分かった上で、あえて北加伊道を提案したのかもしれません。ただ、新政府は武四郎に「道名選定」についての褒賞を与えているので、命名者として位置付けられてはいます」。北海道命名の経緯から読み取る、幕末の探検家・松浦武四郎の魅力です。

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