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アイヌ文化オホーツク文化

ふたつの文化が交叉する、遙かなる時の連鎖と浪漫。

日本の本州では稲作が始まり、弥生時代から古墳時代を迎えていた500年ころ。
北の大地は縄文時代から続く続縄文時代という時が流れていました。この遙かいにしえの時代…。
7世紀から9世紀にかけて、アムール川下流域からオホーツク海沿岸にやって来た民がいました。
雄壮に海獣を狩猟し、豊かな生を謳歌していた彼らの時代。それは長く歴史の層に埋もれ、知られることはありませんでした。
そして1913年に、彼らが存在した証しである「モヨロ貝塚」が発見されると、北海道の古代史にセンセーションが起こりました。
その民族はオホーツク人。そして彼らが築いた文化は「オホーツク文化」と呼ばれることとなりました。
 しかしこのオホーツク文化は、出現から500年の後に忽然と姿を消しています。
日本史でいえば鎌倉時代の幕開けころ。そしてその後、13世紀ころから形成されていったのがアイヌ文化です。
オホーツク人とアイヌ民族。同じ大地で異なる時代に開花した文化。
その二つの文化にはヒグマ崇拝など、共通するものもあり、その点から、「オホーツク人はゆるやかな時の流れの中でアイヌ民族に吸収され同化したのではないか」と推考する研究者もいます。
 このように謎と浪漫を秘めたオホーツク文化とアイヌ文化。
それぞれの文化をリアルに感じ、そして感動となる旅がここから始まります。

自然界を崇め感謝して生きる
アイヌが教えてくれること。

「アイヌ」とは「人間」の意味。アイヌの人々はアイヌ(人間)たることを誇りとしていますから、子どもを諭す時などは、「そんな悪いことをしたらアイヌではなくなってしまうぞ。
ウェンペになってしまうぞ」と言います。
 そしてアイヌの人々の最大の使命とは、「自分の命を生き抜くこと」。
自分に与えられた命は自分だけのものではなく、先祖が代々必死に生き抜いて繋いでくれた命。しかも、何世代もの間、動物や植物など自然界のあらゆる命を得て繋いできた生なのだから…。
 すべてのものにカムイ(神)が宿ると考えることもアイヌの人々の精神です。
火も水も食べ物も、すべてが自然界からの賜り物。そう感謝をして必要な分だけを受け取る。その考えは私たちがたびたび口にする「エコロジー」だとか「食育」などの言葉にも通じます。
 アイヌの人々は文字を持たず、大切な教えや出来事は「ユーカラ」という叙事詩によって伝えてきました。
毎夜、囲炉裏に家族が集まり、誰かがユーカラを語り出すと、皆は歌い踊ります。
フチ(祖母)は囲炉裏の灰に棒で伝統のアイヌ文様を描き、ポンメノコ(少女)に教えます。
たくさん文様を覚えて上手に刺繍ができるようになったらお嫁に行けるよと、ほほ笑みながら。

北のシュリーマンが
発見したオホーツク文化。

オホーツク人の存在を世に知らしめた「モヨロ貝塚」。
その発見者は青森県出身の理髪師、米村喜男衛(きおえ)さんです。
幼い頃から考古学に興味を持ち、理髪店に勤めるかたわら考古学や人類学に触れていた米村さんは、21歳の時にアイヌ研究を思い立ち、運命の地、北海道網走へと向かいました。
 網走に着いた米村青年がまちを流れる網走川を観察していると、河口砂丘で思いがけないものを発見しました。
それは巨大な貝塚。しかもそこから出土した土器は縄文系とも違う新種で、さらに先で古代の竪穴住居跡も見つけました。
米村さんはここを「モヨロ貝塚(※モヨロとはアイヌ語で入江の意味)」と命名し、仕事のかたわら遺跡研究へと没頭してゆきます。大正2年(1913年)のことでした。
 太平洋戦争時は「モヨロ貝塚」が軍需施設によって破壊される危機にも直面しましたが、米村さんの熱意により工事は中止され、モヨロ遺跡は守られました。
さらに昭和22年(1947年)には東京大学や北海道大学からなる「モヨロ貝塚調査団」が結成され、米村さんがたった1人で続けてきた遺跡調査は大きく飛躍します。
その成果を見守りながら、米村さんは晩年まで研究を続けたそうです。