鶴雅50年のあゆみ

先代の足跡に想う鶴雅グループ
代表取締役社長 大西 雅之

 昭和三十年三月、温泉地で旅館をやりたいという祖父大西正一のたっての希望もあり、先代大西正昭が阿寒湖畔に(株)阿寒グランドホテルを設立いたしました。春先の氷がきしむ上を、湖の対岸から砂利を運び、湿地を埋め立て、木造二階建て二十二室の温泉旅館として、翌三十一年五月開業いたしました。

50年の歩み

 当時の阿寒湖は、旅館も数軒しかなく、六月からお盆までの短い観光シーズンと、冬になれば道も閉ざされ、翌春まで陸の孤島になる本当に、厳しい時代でした。 金融機関から旅館にはなかなか融資が得られず、年間九百万の売り上げで一億円の資金を回さなければなかった数年をやっとのことで乗り切り、少しづつ毎年のように増改築を重ね、今日まで旅館業を続けて参ることができました。
 創業の年、私も生まれ、父は二十八歳で釧路駅前の「旅館幾代」と青果店を閉じ、一念発起して阿寒湖畔に新天地を求めて参りました。革ジャンパーにハンチングのスタイルで、体は細いのに馬力だけは人一倍だったと当時を知る方から聞いております。後半生は病気との闘いでありました。四十二歳で発病した糖尿病がもとで結核になり、失明し、片足も切断しなければなりませんでした。しかし、弱音ひとつ漏らすことなく、不屈の意志で事業に取り組んで参りました。六年前に他界するときに、私達に残した最後の言葉が、「もういいじゃ」という一言でした。呼吸をするのも苦しかったのでしょうが、私達には、「自分の代ではここまでやり遂げた。あとはおまえ達頼んだぞ」という万感の思いの一言でありました。
 一昨年、先代の晩年の夢でありました鶴雅別館落成を神前に報告でき、あとを託された者として、「お父さん、ありがとう」の気持ちでいっぱいでした。
 この五十年間、思い起こすと、旅館にとって最も恐ろしい昭和三十八年の食中毒、昭和四十五年の浴場壁からの火災そして平成元年創業者を失うという大きな試練を乗り越えて参ることが出来ました。その時々に、大変なお世話になり、支えて下さった皆様に感謝し、この五十周年をひと区切りとして、先代の残した「和」を合い言葉として、「愛される旅館」を末永く築き上げる所存でございます。